昭和43年11月19日 夜の御理解

何の稽古でも同じですけれども、信心の稽古はとりわけ繰り返し繰り返し同じことを稽古するということが一番大事です。もう一つのことに取り組むでそれを繰り返し繰り返し稽古するのです。そこから一つのことが本当にでき、本当に分かるようになりますと全てのことが分かるようになるです。信心が信心をいやば教えてくれるわけです。ですからもう信心ばかりは、ゆわゆる信心辛抱というておりますように、辛抱が大事です。三代金光様の、そのー、いつでしたかね、あの記念、(かいちゅう?)記念のときに、記念品に差し上げましたように、信心は辛抱することが一番大切でございますと。もう簡単な言葉ですけれどもですね、本当に信心は辛抱することが一番大切でございます。ね、一番大切なものをおろそかにしたらですね、どんなに例えば信心的、信心の(さよう?)というか、ね、例えば良い信心をしよっても駄目です。本当のことを頂かなければ。一つのことが繰り返し繰り返し(   ?)、これをもう一番大事です。ね、ですから願い事を(   ?)例えばその願い事がですね、本当に成就(かんてい?)するまで、願い願い願い願い貫かないけません。ね、そこにですね、あの本当のおかげの受けられる道と同時にです、願い願いしているうちにです、他の色んなことが分かってくるんです。いわゆる願い道が分かってくるです。拝む道が分かってくるです。ね、日頃の信心のあり方が分かってくるんです。ね、金光様の御信心とは、確かにそうです。一つのことが願い貫かれなければいけない。そこで辛抱しぬく。もう辛抱が一番大切だということになりましょう。でなかったらですね、もう毎日毎日こうやって、大変最近なんかはもう大変難しい御理解を頂いておりますけれども、それが(いちいち?)身につかなければおかげが受けられんなんていったら、もう本当に初心の人やら頭の弱い人なんかは、とても分からんです。ね、ですからそれはもういうならば、何と申しましょうかね、お祓いを受けんようなものです。あの仏教で、えーあのあんなんする中の(おきょうもん?)の有難いおきょうのこうやって、バラバラバラバラしてから頭が(かきられ?)がありましょうが。あれなんて言うですかね。あんなんね、有難いおきょうもんをですね、こうやってあのおきょうもんの風を与えるだけでも、体が健康になるといわれるくらいですから、まして神様のお言葉であり、神様のお声であり、それが御理解はその神の目であり、神の耳であり、また口でもあるとおっしゃるくらいですから、神のその口から出ておる、それは私共のわけ分かっても分からんなん、それはおかげになることが分かります。ね、それ、いうならばまぁ何と申しますかね、中身いっちょん覚えて(いない?)なくと申しますでしょう。もうはー金光様の信心の有難かのはここと。一つは分かったら、それをしかも繰り返し繰り返し、有難いところでもですね、どんなに有難いと思うてもです、それをあの繰り返しよらんと今度は有難くなくなってくるです。不思議に。ところがです、その一つのことをまぁたわれ転びしながらでも、続け貫かして頂きますとですね、もう本当にたまがるような、お徳を受けられることができる。久富しげおさんが、もう10年も前でしたでしょうかね、頂かれたあのー、私ちょうど(  ?)御祈念が終ってみんなが帰った後でした。そして一人御結界につかせて頂いておったら、すぐ神様が筆を持て、紙を持てと頂きますもん。どうゆうことであるかと思うて、あのあれ障子紙をそこにひきまして、紙を取らせて頂いたら、もう一気に、そのまぁ頂いたのが、あのあれでした。ね、「何事も素直心の一つにて、雲の上までのぼる道あり」ということでした。それを私は一気に書かせて頂いた。ね、それを久冨さんがじゅくにして、まぁいうならば家の宝のようにして取ってあるわけでございますけれどもです、本当に神様が書いて下さったんだな、と思われるような感じでした。ね、例えば素直心。はー信心っちゃ素直にならなんとばいね、と一つ分からせて頂いて、そのそれをです繰り返し繰り返しです、例えば素直になっても馬鹿をみることがありましょう。素直になればいよいよ、腹の立つようなことになってくるかもしれません。(  ?)素直ばっかりじゃいかんばい。ちった、というて向うが向うなら、こっちもこっちというようなことになるかもしれません。けれどもそこんところをです、いや(たにまず、むまず?)といいます。それこそ素直になることに一生懸命つとめる。しかもそれがね、雲の上までものぼって行く道が開けてくる。いやゆる神様にもなれるということなんです。ね、ですからその素直心なら素直心ということだけに取り組んで、こう繰り返していきよりますと、もう必ずいつかはです、そこから素晴らしい信心が分かってくるです、開けてくるです。ね、あの(うもう豆腐?)という、今でもその豆腐の(かわ?)書かれた、字がもう大変なその素晴らしい字であるとされておりますように、当時日本の国でも三筆と言われるほどの書き手であった。ところがこの人はどうしても、お習字の稽古ができん、これはもう字というものは、(すじ?)をいう。やっぱり(ふですじ?)というてから、筋がある。これはもう自分はもういよいよ駄目だろうとこう思うた。いくらおっしょうさんに、叱られても怒られても分からない。そうゆうある日、あの雨の日に帰って来ておるところに、ね、柳の枝に、あのカエルが一生懸命飛び移ろうとしておる。(しんぞく?)をなん、虫かなんかと間違えたらしいんです。その柳の葉についておる(あまずえ?)をですね、その虫と間違えて一生懸命(とんとん?)。それをジッとこう眺めておったところがですね、段々段々ですね、それに近づいて飛べるようになったと。そして最後にはとうとうそれに飛びついてしもうた、というのをいやば目撃した、それを見たわけです。そして(悟り?)を開いたと。はーこれは例えばでけんと言うても、繰り返し繰り返し稽古をしよれば、できんことはないという、その一心がです、いやば日本じゃ三筆と言われるような書家の大会になられたんです。もう信心も同じことです。もう自分ができん。(  ?)私どんにはできんだろう。はー金光様の信心は頭がいる。決してそうじゃないです。ね、もう辛抱しぬかせて頂くということ。そのことを辛抱しぬかせて頂きよるうちにです、今までかって知らなかったその一言からです、もう信心の全てのことがそりゃ分かってくるようになるです。例えば私の一番初めに、一番有難いと思っておった御教えは、難はみかげということでした。どうしても難はみかげと思えなかったんです。難は難でした。けれども、金光様が難は御影とおっしゃるのだからです、難はみかげ、難はみかげというて、繰り返しもうそれこそもう繰り返し繰り返し、難を受けるたんびにです、それをおかげとして受けていきよったらです、今になって分からせてもらうことは、本当に難は御影だなー、というだけではなくて、本当にいうたら、ここの世の中、難というものがないとまで考えられるようになってきたんです。ね、そう私もまぁ一般からみりゃ、はーあれが難儀だという問題はありますけど、私の目から見てはもう難儀じゃないです。そりゃそのことを繰り返し繰り返し稽古させて頂きよるうちに、ね、いやば信心の素晴らしい境地が開けてきた。ね、徳一つ、信心にはもう辛抱が一番大切でございますから、ね、辛抱しぬかせて頂く、一言でもいいそのことに取り組んで辛抱させて頂きよるところからです、ね、それこそ仕事が仕事を教えるというでしょう。ね、その一つの信心がです、その信心が他のいやば深い意味合いのことまで、分からせて下さるようになるのです。これはおかげというような意味でもそうですね。一つ神様にお願いをするでしょう。例えていうなら、朝参りをしたいと思いますから、どうぞ朝の五時の御祈念にお参りをできますように。四時半に起して下さい、ということをお願いをして休んで。ね、もう本当に神様がですね、起して下さる、ゆり起して下さるようにです、起して下さる。ところがですね、今度は、いくら願ごうても願ごうても、いやされんことがあるんです。だからあん時はやっぱ、偶然目が覚めったっちゃろ、なんて思わんずにです、もうそのこと一つを本気で願いに願っていくわけなんです。そうするとですね、それが段々年数を同じことが繰り返されていきよるとです、もう的確に起して下さるようになるんです。間違いないです。覚えんでおると本当に、例えば色んなその事柄など事情、運命など中からですね、神様が一文一厘間違えなく起して下さるようになるです。これは(禁句?)です。お願いして休んだばってん、目が覚めじゃった。神様のかんながらじゃと(  ?)、というてからもうあくる日からそげなんことお願いせんごつなるようなことではつまらん。ね、そこに自分の願う力というものが、まだ弱い証拠であることを分からせてもろうて、ね、どうゆうわけに、あれだけお願いして休んだのに、目覚ましのおかげをくださんじゃったろうか。という反省してみると、なるほど神様が言うことを聞いて下さるような、事柄にぶつかる、事情があることが分かる。ね、そこを一つ改まる。二つ改まるして、そのことに取り組んで稽古させて頂きよるうちにです、神様がそれこそ的確におかげ下さるようになる。一つのことがそしておかげ頂かれるようになると、これは一時が万事にこの調子だという、その何と申しますかね、おかげのコツというものが分かってくるんです。ね、一つのことから全てのおかげにつながっていくのです。ね、ですからどうしても信心にはその辛抱、しかも繰り返し繰り返しということが大事です。お話も同じことです。はーお話がこの頃聞いたお話と思わずにです、そのお話を繰り返し繰り返し1,000弁もそれこそ万弁も聞いておるうちにです、その心が分かるようになるです、お話の。ね、(ろんご?)なんかという難しいお書物なんかがあります。これでもやっぱり100編も読んでいくよるうちにはです、ね、その難しい意味が分かるといわれるくらいです。繰り返し繰り返しが信心には大切ですね。どうぞ。